日本人は何故英語ができないのか

2006年4月9日の日記より転載

昨日、大学でシンポジウムに参加してきました。
良かったことと悪かったことが両方ありました。


良かったのは、世界的に有名な教授の話を直に聞けたこと。
悪かったのは、英語をあまりきちんと理解できなかったこと。


シンポジウムは、経済系の話と国際政治系の話とがあって、
経済系ではポール・クルーグマンとかFRBグリーンスパンの前の議長のボルカーとか
てっげ有名な人が来ちょったとです。


そういう話を聞く機会っちゅうのは中々無いから、その機会を得られたのは良かった。
ただ、問題は内容を半分以上は理解していないこと。


前は割と英語の勉強をしよったけど、
ここんとこしばらくやりよらんかったら、なまりまくっちょった。
使う機会が無いから段々やらんごなったっちゃけども
それでこういう貴重な機会をふいにしてしまったことが悔しい。
やはり大事だと思うことは日頃からやっちょかんといかんなと思った次第です。


ところで、英語というとアレルギー反応を示す人がやっぱし多い気がする。
日本人は大学まで行った人なら、
中学校3年間、高校3年間に加えて大学でも2年くらいは英語をやるかい
8年くらいは勉強するはず。最近は小学校からもやるみたいやかいもっと長いかも知らん。
少なくとも義務教育の3年くらいはやるから、多少の心得は誰しもあっても良いと思う。


ところが、日本の学生は中々英語を使えない。
聞けない、読めない、話せない。
少なくとも自分が見てきた範囲ではそうである。


以前フィリピンに行った時に、軽い衝撃を受けたが、
東大生よりフィリピンの小学生の方が遥かに英語が使える。
(平均での話なのでもちろん使える人は相当使えるけど)
8年も英語やってきて一体…って気もしました。


思うに、やっぱし学校教育での英語の教え方に問題があると思う。


まず、なぜ聞けないか。
これは、絶対的な量の問題もあるけど、きれいな音しか聞いてないことが原因の1つにあると思う。
教室の中でシーンとした状況でスピーカーから流れる、きれいな発音を聞くのがほとんど。


本当は、普通に話す状況であれば色々雑音も入るし、
どもったり言い直したりするし、人によって発音の仕方もかなり違う。
じゃから、生の話を聞いても頭の中の音と当然一致せん。


もっと問題なのは発声の仕方。
英語を日本語読みする先生が結構多いけど、これは絶対止めた方が良い。
なぜなら、音そのものが違うから。
日本語の「ア」という音は英語だと3種類くらいある。
他に、よく言うのが「ラ」行。「LA」と「RA」は違う。
こんなのがたくさん。


それやとに、英語の音を無理矢理日本語の音に変換してしまうかい
自分が頭の中でうまく変換できんくなるのも無理はない。
これは何の外国語を勉強する時も同じで、
日本語読みをしてしまうと、ヒアリングがしづらくなる。


大体タイ語とかは母音が21だか24だかあるし、
ハングルだって10くらいあるから
日本語の「アイウエオ」の5つで考えるとおよばん。
そもそも、音の体系が違うっちゃかい、
音をきちんと覚えんといかん。


ちゅうわけで、コツとしては、意識して音を聞き分けること。
いきなり音そのものを分けて認識するのは難しいかい
例えば、日本語の「ア」に頭の中で変換していた音を、
これは「mother」の「ア」だな、これは「apple」の「ア」だなと分けて聞くこと。
そして自分で発音する時も意識して使い分けること。これ重要。


次に、なぜ読めないか。
これは絶対的な量の問題が多いと思う。
おれもそうやけど、英語の文章を読む時に頭から訳しながら読んでしまう。
そうすっと、長い分だと段々分けがわからんくなってきて、何回も頭から読まんといかんくなる。


日本語を読むときは、1行くらいはぱっとまとめて読むから
それと同じようにもっと大きなまとまりで認識することができんといかん。
じゃけど、それが中々難しい。


意味がどの辺からどの辺まででまとまっているのか
ぱっと見てわからんかい、結局最初から読んだりする。
ぱっと見でまとまりがとらえるには、テクニックもあるけど
やっぱ勘みたいなのが大きい。


それを身につけるためにはやっぱ量をこなすしかない。
書けないってのもこれと同じ感じやと思う。
これは普通に頑張れっちゅう話やね。


最後に、なぜ話せないか。
これは、「話せない」のではなくて「話さない」のだと思う。
個人的には、ほとんどの人が英語は話せると思っている。
もちろん、流暢に、デーブ・スペクターが日本語話せるように
英語を話せる人は少ない。


それでも英語は話せると言いたい。
やたらめったら文法とかをチェックされる授業を受けてきたせいか、
文章が文法的に合っているかどうかを気にしてしまう。


もしくは、英語を口に出すこと自体に抵抗っちゅうか恥ずかしい感がある。
でも、本来英語は言語であり、
言語っちゅうのは、何かを伝達したり表現する手段であるっちゃから、
目的とする内容がきちんと伝われば良いはずである。


やから、別に英語を使えると言っても、
よどみなく話せることを指すのではなくて
どうにかこうにかでも良いから、
英語を道具として使って相手にものを伝えられれば十分やち思う。
それは単語をぶつ切りで話すのでも伝われば問題ない。


極論すれば、伝われば良いのであるから、
ボディランゲージでも何でも交えて伝えられれば良いのである。
だが、英語を話そうとすると、
まず文を考えようとして、うまく考えられなくて、
そこで止まってしまうことが多い。


例えば、「そのチキン南蛮は私が後で食べるためにとっておいたものなので食べないで下さい」
を英語にしようとすると、
「ユー〜キャント〜ええっと〜う〜ん〜わかんね〜や」みたいな感じになってしまう。
別に、「ノー!イート!チキン!」でも伝わらんことはない。


本の学校の英語教育では、
きちんとしゃべることよりも伝えることが大事ちゅうことが
あんまり効果的に教えられちょらん気がする。


伝えるためには、まず何か言わんことには始まらん。
何でも良いから日本語を使わずに相手に伝えるという経験をもっとやってみるべきやと思う。


例えば、まる1日英語だけで生活してみる。
最初、友達と話そうとしても、驚くほど自分が何も伝えられないことに気付くやろう。
しかし、その後、単語だけでも組み合わせたり、身振り手振りを使ったりして
意外と日常生活のことなら大体伝えられることに気付くやろう。


とにかく、英語は「話せない」っちゃなくて「話さない」っちゅうことやと思う。
何でも良いから英語を使うことにチャレンジさせてみるべきである。
「the apple」と「the banana」では「the」の発音が違うとか
どんげでん良いことを勉強させるより、「apple」をどう伝えるかっちゅうことをやるべき。
(ちなみに、「the」はネイティブの人も区別しないっちゅう話←「ダーリンは外国人」のトニー情報)


文法とか発音とか、細かい規則に正解を当てはめていこうっちゅう授業のやり方が、
ともかく何か伝えるためにやってみようっちゅう
チャレンジの姿勢を失わせるような気がしてならない。


以上、私見でした。


偉そうなことを色々書いたけど、自分も英語を流暢にしゃべれるわけではないので
(もちろん、伝えようっちゅう意志はあるんでかなりめちゃめちゃでも何か言います)が、
精進します。